まずは中原


①相州中原御殿之碑

この碑には慶長年間、江戸に幕府を開いた徳川家康公が旅の宿りとして「雲雀野御殿」と称し…鷹狩り、江戸と駿府往来の途次に宿泊した所とある。

従って中原地方に与えた影響は大きい。江戸時代初期の大住郡の行政、中原御林、中原街道など、皆この地より発したという。平成元年に近世初頭の光彩を放つ著名史跡を末永く顕著するため、平塚市は建碑したと記されている。現在の中原小学校庭にあります。

徳川家康公中原宿泊関係調べ(記録抜粋)

今泉義廣編参照

 

中原御宮記

江戸時代末期に長谷川雪堤が描いた挿絵。中原宿と御殿跡地に建つ東照宮の由来を成島司直の撰によって記されています。

 

中原街道とは江戸時代に東海道が整備された後は脇街道とされ別称として相州街道・お酢街道・江戸間道・小杉道・肥し街道などがあります中原街道の名前の由来は平塚の中原御殿からで、起点は江戸城虎御門から、終点は中原御殿があった平塚市立中原小学校になっています

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①相州中原御殿之碑

徳川家康公が江戸と駿府の往返の途次に鷹狩を楽しんで宿泊した「雲雀野御殿」が中原小学校にありました。

②お地蔵さんと道祖神は御殿3-12にある

子供を守る神様と信じられて疱瘡等病気が治ったら、さん俵に赤い紙を付けて道祖神に納めました。

旅の安全や悪疫防除、子孫繁栄など民衆の信仰でした。

 

 

②裏宿のお地蔵さん像

③谷川橋の跡

宇谷川の舟窪の凹地の池から発源、渋田川に合した排水路で、江戸時代では貯水して中原御殿の空濠引水や代官陣屋の用水として供給していました。

⑤中原遺跡群

沖積低地で初めて弥生時代の住居跡が検出された。井戸跡もあり遺物から雨乞いの儀式が大旱の時に行われていました。

18基の竪穴式住居跡が確認されました。

⑥日枝神社

御殿の鬼門鎮護の為に建立。本殿には大山咋命、東照大権現社、神明社、八坂社、稲荷社、天満宮、忠魂碑が祀られています。

 

日枝神社の大絵馬

(神楽絵)

例大祭には神楽殿で芝居が催され、芝居に先だって三番叟が行われていた様子などを描いた絵馬が本殿の庇に奉納されています。

 

日枝神社祭礼の山車

例大祭は9月15日。神輿や各町内の太鼓山車が出て、曳いて町内を練り歩きました。宮入りには伊勢原県道に6基の山車が揃うのが圧巻です。

⑦庚申供養塔

昭和の初め頃まで六本の地に北向きに立っていた道標

左ステンシヨ道」と彫ってありました。日枝神社右手脇にあります。

④中原街道はお酢街道とも呼ばれ、成瀬酢を江戸城まで運ぶこの場所に祠の一里塚があったと聞きました。

⑧シロミ塚の蹟

大繩橋公園東側付近は昔は砂丘遺蹟で付近に散在して馬頭観音など石仏が道の端に寄せ集められていて「志こみ塚」と呼ばれていました。

⑨渋田川の白鷺

大繩橋は涙橋といい、昔、罪人の首をきったと伝えらています。その渋田川にはしらさぎやカモなどの水鳥が餌を求めて飛来して来ます。

⑩中原街道(御酢街道)

東海道平塚宿から江戸虎の門に至るまで中原で作ったお酢を家康公に献上時につかったことから称された。小田原から江戸を結ぶ最短距離であります。

 

④御酢街道一里塚碑令和元年まで御殿3-25-6現高倉町珈琲駐車場南側の鈴木様方の塀にはめ込まれていました。大磯の一里塚に続き、次は四之宮の一里塚に

⑪中原御殿大手道と高札場跡

中原宿は城下町造りで中原御殿に向かう大手道と中原街道が交わる場で御縁場と呼び、禁令を掲げた場所。北側が当宿の小川氏の屋敷があり、南側が酢屋の佐藤氏の屋敷がありました。


(参考文献;平塚市史民俗調査報告書6-大野-、 中原小学校創立100周年記念誌 、新平塚風土記稿)